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大阪地方裁判所 平成2年(わ)3092号 判決

主文

被告人を懲役三年に処する。

この裁判確定の日から四年間刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人に負担させる。

理由

(犯罪事実)

被告人は、平成二年八月二九日午後一〇時四五分ころ、大阪市中央区《番地略》甲駅地下二階東改札口内二号売店西横の公衆電話コーナーにおいて、電話をかけようとしていた際、左隣の男から左肩付近を押されるなどしたため、これを押し返すなどしたところ、たまたま被告人の右横で電話中のAが通話相手に「こら。」などと言つたのを耳にし、自分に対し文句を言つているものと誤解して腹を立て、Aの眉間部を右手げん骨で一回殴りつける等の暴行を加えた。その結果、Aが鼻骨骨折を伴う眉間部打撲傷の傷害を負い、同年九月五日午後六時ころ、同市福島区《番地略》乙病院において、前記傷害によるびまん性脳損傷により死亡した。

(証拠)《略》

(争点に対する判断)

一  主要な争点

本件の主要な争点は、(一)被告人の本件暴行行為の態様、ことに、被告人が受話器で被害者の顔面(鼻部)を殴打したかどうか、という点と、(二)被告人の暴行と被害者の死亡との間に因果関係があるか、という点である。

二  被告人の本件暴行行為の態様について、

1  目撃者の供述の概要

まず、被告人の本件暴行行為を目撃した三名の供述の概要をみるに、

(一) 第三回公判調書中の証人Bの供述部分によれば、Bは、「何言うてるか」「やかましい」という大声でけんかに気付き、公衆電話コーナーのところに被告人(大声で怒鳴つている)と被害者が向かい合つて立つているのを見た、公衆電話コーナーの前(南側)付近で、被告人らから二、三メートル位離れた位置から見ていると、被告人の暴行が始まり、被害者に対し、まず、左太股付け根付近を一回膝蹴りし、鼻付近を右手げん骨で一回殴打し、続いて、よろよろと北側の壁の方にもたれかかつた被害者を追い、後頭部付近を右手に持つた受話器で一回殴打した、被害者は南の方に向いてふらふらと何歩か歩いて来たところで体の向きを変え、売店横の手押し車の上に倒れた旨証言し、また、

(二) Cの警察官調書によれば、Cは、公衆電話コーナーの西奥に並んでいる椅子に座つて缶ビールを飲んでいると、公衆電話機の前で大声で怒鳴つている被告人に気付き、その様子を見ていた、被告人は、公衆電話コーナーの東端の電話機で電話をしていた被害者の所へ行くと、被害者に対し、まず、股間を蹴り上げ、顔を右手げん骨で殴打し、さらに、よろよろと後ずさりして北側の壁にもたれかかつた被害者目がけて受話器を投げつけたが、当たつたかどうかは見えなかつた、被害者は売店の壁にもたれるようにして倒れた旨供述し、

(三) Dの警察官調書によれば、Dは、公衆電話コーナーの東横にある売店内で商品販売に従事していたところ、公衆電話コーナーで「うるさい」という大声がしたので、すぐにその大声の方を見た、自分は被告人らから約三メートル離れていた、被告人が被害者の顔を右手げん骨で一回殴打し、被害者は北側の壁の方に後ずさりして行き、その後その姿が売店西側に設置してある売店出入口シャッターの陰になつて見えなくなつたが、すぐに陰から出て来た被害者は売店南西角の方に後ずさりするようにしてよろけて行き、売店の角で倒れた旨供述している。

2  以上の目撃者三名の供述をみると、被告人の被害者に対する暴行行為として、まず腹部を一回膝蹴りか足蹴りし、次いで右手げん骨で鼻付近を一回殴打し、被害者はよろめいて北側の壁にもたれかかつた事実についてはほぼ一致しており、この点は被告人も公判廷で認めているところであつて、これらの事実は優に認められる(なお、この右手げん骨による殴打によつて被害者が鼻出血していることも明らかである。)。

3  そこで、被告人が受話器で被害者の顔面(鼻部)を殴打したかどうかについては項を改めて検討することにするが、次に、受話器で後頭部を殴打した否かについて検討する。

第七回公判調書中の証人Eの供述部分、捜査復命書(検察官請求番号32)添付の被害者のカルテ謄本(以下「カルテ謄本」という。)によれば、被害者は、平成二年八月二九日午後一一時六分ころ、乙病院特殊救急部(以下「救急部」という。)へ搬入されたが、担当医として被告人を診察したE医師は、搬入時、被害者の後頭部に皮下血腫があるのを手で触つて確認、診断した上、カルテの人体図の後頭部の部位に皮下血腫と図示したことが認められる。この事実は、被告人が受話器で被害者の後頭部を殴打した旨の前記B証言を裏付けるものというべきである。もつとも、この点に関し、F作成の鑑定書(以下「F鑑定書」という。)によれば、E医師が診断した前記皮下血腫の部位とほぼ同じ辺りの、後頭上部の外表面に褥瘡が認められ、右頭頂後部から後頭上部にかけてびまん性出血が認められるが、同出血は外傷性出血とは認めがたいとされていることが認められる。しかし、さらに、この点については、E証言によれば、救急部搬入時の皮下血腫が解剖時までに褥瘡のような状態になつた可能性があることが認められるところ、第五回公判調書中の証人Fの供述部分によれば、本件では受傷から解剖までに日数が経過しているので、受傷による皮下出血が解剖時までに吸収されていることもある旨、E証言と同旨の証言をしていることが認められることからすると、前記B証言やE医師の診断所見が、前記F鑑定書により否定されることにはならないと解される。また、この点に関する前記C供述とD供述は、B証言と対比し、やや明確を欠くが、同証言と矛盾するものではなく、してみると、被告人が受話器で被害者の後頭部を殴打した行為は、被告人の捜査段階での供述をまつまでもなく、これを認めることができる。

三  被告人の受話器による被害者の顔面(鼻部)殴打行為の有無について

そこで、進んで、被告人が受話器で被害者の顔面(鼻部)を殴打したかどうかについて検討を加えることとする。

1  目撃者の供述について

(一) この点に関しては、前記目撃者三名のうち、Bが、被害者の顔面に受話器がまともに当たつたことはない旨、被告人が受話器で被害者の顔面を殴打したことを否定する証言をしており、C、D(一時視界が遮られた)の両名は、この事実の有無につき全く供述をしていない。

(二) Bの証言、C、Dの供述によれば、目撃者三名は、それぞれの目撃位置、目撃角度が異なつているものの、前記のとおり、被告人の怒鳴り声で被告人と被害者のけんかに気付き、被告人と被害者から二、三メートル程度離れた位置から、被告人の被害者に対する暴行状況を、ことにBとCはその開始直前の場面から、Dはその開始直後の場面から最終の場面までを目撃していたものであり、その間の被告人の暴行は一瞬の出来事であつたと述べているように、ほんの分秒のものであつたと認められること、受話器で顔面を殴る行為の如きは、他の暴行行為と比べ、見落とされ易い行為とも思われないことなどからすると、仮に受話器による顔面殴打行為があつたとすれば、Bら目撃者三名が、そろつて、その僅かの間の被告人の連続した暴行行為のうちの、受話器で被害者の顔面を殴打した行為だけを見落としたとみるのは(Dには一時視界が遮られたという事情があつたにしても)いかにも考え難いのである。しかも、CとDの前記警察官調書は、いずれも平成二年九月一一日付けのものであるところ、後記の被告人の捜査段階の供述との関連でみてみると、被告人の同年九月四日付け(検察官請求番号16)、同年九月一〇日付け(同番号17)警察官調書によれば、被告人は、九月四日付け警察官調書から、受話器を被害者に投げつけようとして、受話器を握つた右手を振り上げ、振り降ろそうとしたら、被害者との距離が近すぎたため、受話器が被害者の鼻付近にまともに当たつた旨の供述を始め、九月一〇日付け警察官調書でも同旨の供述を繰り返していたのであるから、九月一一日に取調べを受けたC、Dは、捜査官からこのような事実の有無について詳しく取調べを受けたことが推認できるところ、それにもかかわらず、CとD両名の警察官調書には、この事実の有無について(Dには視界が一時遮られたという事情があつたにしても)全く供述がなされていないことも注目すべきことであり、このような事情は、被告人が受話器で被害者の顔面を殴打した事実はなかつた旨のB証言を裏付ける事情となるとみるべきである。

(三) してみると、被告人が受話器で被害者の顔面を殴打したことはない旨のB証言は十分信用すべきものと考えられる。

2  被告人の捜査段階の供述について

(一) 次に、この点に関する被告人の供述の概略をみるに、被告人は、(1)捜査段階において、同年九月四日付け警察官調書(検察官請求番号16)から犯行状況について詳しい供述を始めているのであるが、同調書で、被害者に受話器を投げつけようとして、受話器を握つた右手を振り上げ、振り降ろそうとしたら、被害者との距離が近すぎたため、受話器がまともに被害者の鼻付近に当たつた旨供述し、以後同年九月一〇日付け(同番号17)同年九月一二日付け(同番号18)、同年九月一四日付け(同番号19)警察官調書、同年九月一六日付け(同番号20)検察官調書でも同旨の供述を繰り返している。(2)これに対し、公判(第一回、第一一回、第一二回公判)では、受話器で被害者の顔面を殴つた記憶がない旨、これを否認する供述をしている。

(二) そこで、前記B証言と異なる趣旨を述べる被告人の捜査段階の供述の信用性について、さらに検討する。

被告人は、公判において、受話器で被害者の顔面を殴打した記憶がないが、捜査段階で前記のような供述をしたのは、取調べの警察官から、投げた受話器が当たつてできる傷ではないと言われたからである旨供述し、弁護人は、これにそつて、被告人の捜査段階の供述は、捜査官の誘導によるものであると主張している。

しかして、被告人の前記九月四日付け警察官調書をみると、同調書には、「私は、今まで公衆電話の受話器で殴つたという事実について、殴つていない、受話器を相手の人の顔付近めがけて投げつけたら顔に当たつたと言つているのですが、刑事さんに相手の男の人Aさんの怪我の状況等の説明を受け、受話器を投げつけてできる傷ではないことが分かりました。」旨、被告人が公判で供述しているとおりの供述記載があることが認められる。

これに対し、第四回公判調書中の証人Gの供述部分によれば、被告人を取り調べた警察官であるG証人は、弁護人から、被告人に対し、「受話器を投げつけて、こんな傷ができるはずないじやないか。」とか、「受話器で顔面を殴つたんだろう。」という質問をしていないか、と問われてこれを否定し、九月四日付け警察官調書の前記供述記載自体に反する証言をし、続いて、弁護人から、同警察官調書の前記供述記載部分を示されるや、「それは、鼻骨骨折をするぐらいの傷なので、受話器を投げて、顔面にそううまく当たるか、という質問をしたということであり、受話器で殴つただろうという質問はしていない。」旨証言する。しかし、このようなG警察官の証言は、同警察官調書の前記供述記載に明らかに反する弁解といわざるを得ず、また、前記G警察官は、被告人を取り調べた当時、被害者の顔面には鼻骨骨折と眼部の打撲の二か所に傷があると考えており(実際には、F鑑定書によると、眼部の皮下出血は別個の打撃によるもとまでは認め難い。)、従つて攻撃も二度あつたと想定していたことから、受話器と手拳で殴つたのではないかと追及したことが認められる。

加えて、G証言によれば、G警察官自身、被告人が、これまでに前科もなく、初めて留置場に入り、とにかく大変なことをしたという気持ちが先に立つて、かなり動揺した精神状態にあつたことを認めており、手拳で殴ろうが、受話器で殴ろうが、犯情についてはともかく、犯罪の成否自体には直接影響しない事柄であることを考えると、そのような精神状態にある被告人が、あくまでも自己の認識しているところを供述し続けなかつたのではないかとも疑われるのである。

以上の諸事実を総合すれば、受話器で被害者の顔面を殴打したという趣旨の被告人の前記のような捜査段階の供述は、被害者の顔面に鼻骨骨折が生じていることから、被告人が受話器で被害者の顔面を殴打したに違いないとの捜査官の誘導に基づいてなされたものと認めるのが相当である。

よつて、この点に関する被告人の捜査段階における供述調書は、前記B等目撃者の証言、供述と対比し、信用できないといわなければならない。

(三) 以上に関連し、本件犯行現場において、被告人自身に指示説明をさせて犯行状況を再現させた実況見分調書(検察官請求番号14)中の、被告人が受話器で被害者の顔面(鼻部付近)を殴打した状況について指示説明をし、その状況を再現した部分についても、以上の被告人の捜査段階における供述調書と同様の理由で、信用性がないというべきである。

3  受話器に血痕が付着していることについて

(一) 公衆電話用受話器一個(平成二年押第五六四号の1)、写真撮影報告書(検察官請求番号9)、鑑定書(同番号27)によれば、本件受話器の送話口部分の送話口面部、側面部、背面部に被害者と同じA型の血痕が付着していることが認められ、被告人の平成二年九月一四日付け警察官調書(同番号19)によれば、同調書には、受話器を見せてもらい、受話器の話す方に血が着いているので、その部分が被害者の鼻付近に当たつたと思う旨の供述記載があることが認められる。

(二) 検察官は、当時被害者は、被告人のげん骨による殴打のためかなりの量の鼻血を流していたところ、被告人は、受話器で被害者の鼻付近を殴打したので、この鼻血が受話器に付着したと主張し、本件受話器に血痕が付着していることは、被告人が受話器で被害者の顔面(鼻部)を殴打したことの証左であると主張する。

(三) しかし、カルテ謄本、F鑑定書によれば、救急部搬入当時の被害者の顔面の損傷としては、眉間部に皮下血腫、鼻骨骨折を伴う打撲傷が認められるだけであるところ、検察官の主張どおりと仮定しても、鼻孔よりも上に位置している眉間部を受話器の送話口部分で殴打した(前記被告人の平成二年九月一四日付け警察官調書)際に、どうしてその受話器の送話口部分に鼻孔から流下した鼻血が付着することになつたのか合理的な説明ができないように思われる。この点は、被告人が公判で供述するような、受話器を被害者の襟元付近に押しつけているときに、流下した鼻血が付着したとみることもできるのであつて、結局本件証拠からは、どのようにして本件受話器に血痕が付着したのかは確定することができない。

してみると、本件受話器に血痕が付着しているにしても、そのことが、被告人が受話器によつて被害者の顔面(鼻部)を殴打したことの証拠であるとまではいいえず、また、この点に関する前記被告人の警察官調書も信用性がないというべきである。

4  結論

以上に検討してきたとおりであつて、前記のいずれの証拠によつても、被告人が受話器で被害者の顔面(鼻部)を殴打したことを認めることができない。そして、その他、本件全証拠を検討してみても、被告人が受話器で被害者の顔面(鼻部)を殴打したことを認めるべき証拠は存しない。

四  被害者の死因について

1  以上に検討してきたとおり、被告人が右手げん骨で被害者の鼻付近を一回殴打したことにより、被害者は鼻骨骨折を伴う眉間部打撲傷の傷害を負つたと認めることができるところ、被告人がげん骨で殴打したという認定は、F鑑定書が、被害者の眉間部打撲傷は打撃面が比較的平坦な鈍体で打撲されたために生じたと指摘していることにも適合していると認められる。

2  そこで、被害者の死因について検討する。

(一) F鑑定書、第五回、第六回公判調書中の証人Fの供述部分(以下、これらを併せて「F鑑定」という。)によれば、F鑑定は、被害者の死体の解剖所見に基づき、眉間部の打撲傷は鼻骨骨折を伴い、大脳上面から側面にかけて外傷性くも膜下出血を来し、脳は全般にうつ血・腫脹していること、脳は脳死状態に陥つて軟化しており、詳細な所見を得ることは困難であるが、明らかに挫傷といえる所見は認められないこと、頭部・顔面を打撲したが、くも膜下出血のみで脳挫傷を伴わない場合でも、死亡することは少なくなく、死亡に至るメカニズムについては、打撲による衝撃に基づく〈1〉神経細胞ないし脳組織の機能的障害、〈2〉脳組織の小範囲のずれ、空疎化、裂開、小出血、〈3〉白質と灰白質、神経細胞と周囲組織、髄液と脳室壁など、各境界面におけるずれ、〈4〉脳全体の屈曲、伸展、裂開、組織内のずれ、組織の空疎化、〈5〉血管障害や血管のれん縮、〈6〉神経性ショック等の諸説があり、未だ確立されてはいないところ、本件では、脳死状態に陥つて軟化した脳であり、詳細な所見を得ることが困難であつて、解剖所見からは死亡に至るメカニズムを鑑定するまでには至らなかつたこと、前記くも膜下出血以外には死因となるような、あるいは、死因に影響を及ぼすような外傷も疾病も認められないこと、等を根拠として、被害者の死因は、眉間部打撲によつて外傷性くも膜下出血が起こる程の脳震盪が起こり、それに基づき脳機能障害が起こつたものと推定される、と結論づけている。

(二) また、鑑定人H作成の被告人甲野太郎に対する傷害致死事件に関する鑑定書(同鑑定人作成の傷害致死被告事件の照会書に対する意見書を含む。)(以下、これを「H鑑定」という。)によれば、H鑑定は被害者の臨床経過、CTスキャン所見、ことに、八月二九日実施の第一回目CTスキャンの所見が、くも膜下出血、脳室内出血、びまん性脳腫脹などが認められること等を根拠として、被害者の死因は、頭部外傷によるびまん性脳損傷である、と鑑定している。

3  しかして、F鑑定では眉間部打撲による脳機能障害を死因とし、H鑑定でも頭部外傷によるびまん性脳損傷を死因としていて、両鑑定とも、結論としては、外傷性の死因である旨ほぼ同一の鑑定をしているところ、F鑑定では、前記のとおり被害者の死体の解剖所見だけを資料とし、そのため、被害者の脳は脳死状態に陥つて軟化しており、脳の詳細な解剖所見を得ることが困難であり、脳損傷といえる所見は認められないとして前記結論を導き出しているに対し、H鑑定では、入院カルテ謄本、プロブレムリスト(写)、熱型表(写)、看護記録(写)、CTスキャン検査依頼並びに検査結果(写)、頭部レントゲン単純撮影フィルム(写)、頭部CTスキャンフィルム(写)、被害者の担当医であるE医師の証言等被害者の治療経過及び検査結果に関する資料のほか、前記のとおりのF鑑定も加えた、本件一件記録全部を資料として、被害者の死因はびまん性脳損傷であると鑑定しているのである。

そして、E証言、カルテ謄本、プロブレムリスト(写)等によれば、被害者は、平成二年八月二九日午後一一時六分、救急部に搬入されたが、搬入時の頭部CTスキャンの所見は、くも膜下出血、脳幹周囲に出血、脳室内出血が認められ、また、八月三〇日午後七時ころの頭部CTスキャンの所見は、脳腫脹が著明であつたこと等のH鑑定がびまん性脳損傷の診断に特徴的なものであると指摘している所見を認めることができる。

以上の事実に加え、E証言、カルテ謄本、プロブレムリスト(写)、熱型表(写)、看護記録(写)等によつて認められる被害者の臨床経過をも総合して考察すると、被害者の死因は、H鑑定に従い、鼻骨骨折を伴う眉間部打撲傷によるびまん性脳損傷と認めるのが相当である。

4  なお、弁護人は、被害者が鼻出血を気道に詰まらせ、呼吸停止・心停止に至り、脳浮腫が増悪し、脳死状態に至つた旨主張し、H鑑定のいう被害者の死因に対し疑問を呈するけれども、H鑑定は、被害者の頭部外傷のみでも極めて重症であると指摘し、ただし、受傷後の経過を通じ、口腔内の多量の血腫塊が呼吸不全に多少なりとも影響を及ぼした可能性は否定できないとするにすぎないのであるから、死因に関し、弁護人が主張するように、頭部外傷を度外視することは相当でなく、仮に血腫塊が呼吸不全に影響を及ぼしたとしても、本件死因であるびまん性脳損傷に至る経過に違いをもたらす可能性があるだけであつて、被害者の死因を判示のように鼻骨骨折を伴う眉間部打撲傷によるびまん性脳損傷と認定する妨げにならない。

五  被告人の暴行と被害者の死亡との間の因果関係について

1  以上に検討してきたところからすると、被告人が右手げん骨で被害者の眉間部を殴打した行為により、被害者は、鼻骨骨折を伴う眉間部打撲傷の傷害を負い、その結果、びまん性脳損傷を起こして死亡したと認めることができるから、被告人の眉間部殴打行為と被害者の死亡との間に因果関係があることは明らかである。

2  ところで、H鑑定、F鑑定、E証言、カルテ謄本、プロブレムリスト(写)、看護記録(写)、脳死判定報告書(B群)(写)、Iの検察官調書によれば、被害者は、眉間部打撲によるびまん性脳損傷により脳死状態に陥り、九月三日午後七時に第一回目の脳死判定がなされ、次いで九月四日午後七時三五分に第二回目の脳死判定がなされ、脳死が確定したこと、そして、被害者の妻であるIらは、E医師らから、被害者が脳死と判定されたこと等について説明を受けた上、九月五日午前九時ころ、被害者の人工呼吸器を取り外すことを承諾したこと、九月五日午後五時四〇分ころ、被害者の家族の立会いの下に、E医師により被害者の人工呼吸器が取り外され、九月五日午後六時ころ、被害者の心臓停止が確認されたことが認められる。

そこで、弁護人は、被害者が心臓停止に至るにつき人工呼吸器の取り外し措置が介在しているところから、被告人の暴行と被害者の心臓死(「三徴候」による死、以下同じ。)との間に因果関係があるというにはなお疑問が残ると主張する。

しかし、前記のとおり、被告人の眉間部打撲行為により、被害者は、びまん性脳損傷を惹起して脳死状態に陥り、二度にわたる脳死判定の結果脳死が確定されて、もはや脳機能を回復することは全く不可能であり、心臓死が確実に切迫してこれを回避することが全く不可能な状態に立ち至つているのであるから、人工呼吸器の取り外し措置によつて被害者の心臓死の時期が多少なりとも早められたとしても、被告人の眉間部打撲と被害者の心臓死との間の因果関係を肯定することができるというべきである。

8 よつて、被告人には傷害致死罪が成立する。

(法令の適用)

罰条 刑法二〇五条一項

刑の執行猶予 刑法二五条一項

訴訟費用の負担 刑訴法一八一条一項本文

(量刑の理由)

一  被告人は、被害者の通話相手との話声を自分に対する文句、非難と誤解して、一方的に前記の暴行を加えており、何の落ち度もない、当時四〇歳の働き盛りの被害者を死亡させることになつたその結果は、まことに取り返しのつかない重大なものである。被害者の無念さはもとより、突然に家庭の主柱を失つた妻や父を亡くした現在中学生の二人の男の子たちの悲しみや憤りは察するに余りある。これらの事情にかんがみると、被告人の刑事責任は重い。

二  しかし他方、被告人は、新築したばかりで入居直前の住宅と宅地を売却し、被害者の遺族に対し慰藉料として一三〇〇万円を支払つたほか、さらに五〇〇万円を支払うこと(内五二万円は支払済)等を約束し、少ない家計の中から毎月分割支払を続けるなどして、被告人の妻、母ともどもに慰藉、謝罪に努め、被害者の遺族との間で一応示談が成立していること、被告人は、一時の腹立ちが極めて重大な結果を惹き起こしたことを深く悔い、反省の情は顕著であること、被告人には前科前歴がないこと、被告人は、本件により、転居、転職を余儀なくされ、また、本件がマスコミで報道され、社会的な制裁を受けたともみられること等、被告人のために酌むべき事情が認められる。

三  以上のような諸般の事情を総合考慮し、被告人に対しては、主文の刑に処した上、その刑の執行を猶予するのが相当と判断した。

(裁判長裁判官 河上元康 裁判官 生熊正子 裁判官 白神文弘)

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